東洋の理想
アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分かっている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広がりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。
東洋の理想
岡倉天心
富永芳彰 訳
オリジナルは英語で書かれた論文
1903年
岡倉天心の思想でもっとも重要なのは、アジアの諸文化は多様であるが一つである、ということである。個別性や多様性を含んだまま、生命体のように一つとして捉えることができる、というわけである。
「多にして一」という思想は、東洋文明を論じたこの論文の中においては(そして残念ながらこの論文の中でのみ)大いに説得力がある。
愛という言葉も、論文全体を通じてリアリティーがある。
日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。なんとなれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論の精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。
日本の芸術の歴史は、かくして、アジアの諸理想の歴史となる。
東洋の理想
岡倉天心
第一章 理想の範囲
「東洋の理想」とは日本のことである。
古代よりアジア文化の波が日本に押し寄せ、数多く中国やインドの文化財がもたらされ、それら日本で大事に保護されてきた。
一方中国やインドの本国では侵略その他によって大事な文化財は大部分破壊され、日本のみがアジアの歴史的遺産を今日まで留めてきた、とのことである。
新しい時代が生まれ出る機運にあった。アジア思想の全体が、仏教がみせたインドの抽象普遍的なるものの幻を超えて、澎湃(ほうはい)として湧き立ち流れ、その最高の自己啓示を、宇宙そのものの中に認識しようとしていた。この衝動はやがて卑俗化し、その卑俗化はつぎの時代になって、低俗で硬化した象徴主義への傾向が美の直接的知覚に取って代わろうとしたとき、正体をあらわずはずにはなっていた。しかし当分の間は、精神は物質との結合を求めつつあり、その最初の抱擁の歓びが、カーリダーサの、李太白の、人麻呂の歌を通じて、ウジャイン〔インドの古都〕から長安および奈良にわたって鳴り響くことになっていた。
東洋の理想
岡倉天心
第七章 奈良時代(七〇〇年-八〇〇年)
岡倉天心は、”アジア全体を精神の流れのようなものが覆っており、各々の芸術家はその精神の流れを感じ取ってそれぞれ表現する” というヴィジョンを見ていたらしい。
その精神の流れは日本にたどり着き、各時代のアジア文化の足跡を残すと同時に、日本文化の性格をも作ってきた、ということである。
岡倉天心はこの「東洋の理想」と前後して「アジアの目覚め」「日本の目覚め」などを著し、西洋近代主義への対抗を鮮明にしている。
大川周明は、岡倉天心に多大な影響を受けた。大川周明は、岡倉天心の目指したアジアの理想を政治的に達成しようと努力した。
しかし岡倉天心のいうアジア文明・文化への愛を、政治的ないし民族的な愛に置きかえることは到底できなかった。岡倉天心のヴィジョンを政治的に実現することは明らかな失敗であった。
政治と芸術には位相の違い・次元の違いというものがある。
岡倉天心が言い切った理想を実現することはとうとうできなかった。